分厚い遮光カーテンを開けると朝陽が街を照らしていた。
 薄く曇った視界は靄に包まれているが、陽光は眩しいまでに世界を照らしている。
きっと今日も暑い一日になるのだろう。僅かに受けた日射しは、肌を焦がそうと狙っているようだ。
 しかしカーテンを開け放つ事もなく、王泥喜は再びカーテンを引き直した。部屋は再び暗闇に戻る。薄明かりを頼りに、存在感をアピールしているダブルベッドへ戻り、中を覗き込む。
 くうくうと寝息が聞こえてくれば、自然と頬が緩んだ。安心しきった寝顔は酷く無防備で、保護慾と同じ程度の加虐心を感じさせてくれる。
 ちゅっと軽い音を立てて頬に口付けを落とした。
「おはようございます。響也さん。」
 俯せになって、枕に深く沈み込んでいる横顔に声を掛けてはみたが、起こすつもりなどない。連日の激務に加えて、昨夜無理をさせた事は、加害者である王泥喜は充分に自覚している。合意の上とは言ったものの、行為の終盤では本気の拒絶が含まれていた事も気付いていた。それでも押し留める事が出来なかったのは、ただ王泥喜の慾。少しばかり、会えない日が続いていたのが原因だ。
 同年代の友人との会話では、自分は随分と淡泊な方らしいのだけれど、あれを淡泊と呼んだのならば、この人はきっと怒り出すに違いない。

「キッチン、借りますね。」

 ピアスの剥がれ落ちた耳元に伝言を残して、床に散らばった衣服を掻き集め、取りあえずシャツとズボンを身に付ける。残った響也の服は手近にあった椅子の上において、こそ泥のように足音を忍ばせて部屋を出た。
 全く習慣とは恐ろしいものだ。部屋はまだ暗く、特に用事もないというのに体内時計は日の出を察知して目覚めを即す。そのまま響也の横で寝顔を見ているという選択肢もあったが、そこは血気盛んな若造。(自分で言うのもなんだけど)見ている間にまた…というのも充分に推測出来たので敢えて止めた。
 珈琲でも飲みながら、響也の目が覚めるのをのんびり待つつもりで、勝手知ったるキッチンの棚を開けた。こうやって、お互いの部屋へひとり置かれても、緊張感や居心地の悪さを感じなくなってどれ程経つだろうか。
 自宅へ戻ってみれば、ちゃっかり響也が待っているなんて場面も珍しくない。そういう時は、このまま部屋へ閉じこめてしまいたいなんて思う事があって、随分と独占欲が強いのだと改めて自覚した。
 沸かしたお湯をポットに注ぎ、王泥喜はいつも珈琲豆が入っている引き出しを開ける。

「あれ?」

 珍しくそこは空っぽで、切れた嗜好品ですら買い足す時間が無かったんだと改めて響也の多忙ぶりを顧みる。買いに出ようかとも思ったが、折角の休日。一緒に出る方が楽しいだろうと考えて代替品を探す事にした。
 家宅侵入の窃盗犯よろしく、引き出しを開けてまわれば、奥には紅茶の缶を見つけた。ラベルを一瞥しただけで王泥喜には持ち主が特定出来た。

「牙琉霧人」

 自分の師であり、響也の兄である人物。彼の審理は非常に難しく、未だに結審を見ていないと風の噂に聞いている。
 王泥喜は、引き出しから取りだしたそれをテーブルの上に置いて、椅子に腰を落とした。封は既に解かれているから、使用済み。けれど、もっぱら響也が珈琲を愛飲しているのは周知しているので、先生が投獄される前に使っていたもの…という事になる。蓋を開ければ、鮮やかに香る葉の匂いは、一瞬師の面影と重なった。
 彼を師とする事がなければ、恐らく自分はこれ程までに響也と親しくなることも無かっただろうと王泥喜は感じていた。ある意味、自分と響也を最も深く結びつけてくれた人物。そうして、この紅茶の美味しい入れ方を教えてくれた人間だ。
 マニキュアを塗った綺麗な指で優雅に紅茶を入れながら、同じその指で彼は人を殺した。己の意にそぐわないと見れば、幼い少女にすらその毒牙は容赦ない(一種の強さ)を、王泥喜は感じていたようにも思う。
 もしも弟である響也の関係を知ったら、彼は一体どう思うのだろう? ふいに王泥喜の頭にそんな事が浮かぶ。まぁ、歓迎はされないだろうなと素直に感じた。
 開け放した缶からは、変わらぬ紅茶の香りが鼻を擽っている。遅効性の毒のように、いつまでもその存在を示し続けるそれを王泥喜は改めて見つめた。
 これを見る度、飲む度に、響也は兄を思うのだろう。人の記憶とはそうして構築していくものだ。
 それならば、俺は…そう思い、王泥喜は不敵な笑みをその顔に浮かべた。


 綺麗な髪を後ろからグシャグシャと掻き回しながら、響也がベッドを出来くる。未だに寝ぼけた表情を崩しもしないで、王泥喜の顔を見ると挨拶よりも先に欠伸がきた。
「おはようございます。」
「ん…おはよ…………………アニキの…紅茶?」
 部屋へ入った途端、響也は目を丸くした。王泥喜は、わざと香るように、手の中のカップをくるりと回す。小さな波が生まれて、芳香が増した。
「響也さんにも、入れてあげましょうか?」
「うん。久しぶりだな、この香り。おデコくんが入れたんだ。」
 懐かしそうな、それでいて寂しげに顔を歪めて響也は笑った。思い出が響也を連れていってしまう前に、王泥喜はバスタオルを頭に被せてやる。
「シャワー浴びてきて下さい。紅茶と、朝食も用意しておきますから。先生直伝なんで、上手ですよ。俺」
 にっこり笑うと、んと頷いて素直にバスルームに向かう。脚を引きずるような動きに苦笑を漏らすと、振り返って睨まれた。
 誰のせいだと思ってるんだ!との捨て台詞に、ただ笑いが込み上げる。こうして側にいて、ゆっくりと自分との思い出にすり替えていくのだ。
 師に習って、遅効性の毒を使うように。 


魔女に習った毒林檎の作り方


『…そう言えば、先生は魔法使いでしたね。』
 王泥喜はテーブルの向側に紅茶を用意すると、クスリと笑った。



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